40代サラリーマンのぼやき

思いついたことを書いてます。雑記です。

東日本大震災被災地を巡る旅その10(釜石市の現状を見てから「助六」で賑やかな夜)

釜石に到着してホテルを決めて遅めの昼食を食べたので、釜石市内を歩いてみることにしました。

 

釜石市内を歩いてみる 

だいたいこんなルートです。

釜石駅前のホテルがあるところから海の方へ。

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青葉公園商店街

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ここまでほとんどの街でプレハブの商店街をたくさん見ました。

 

 釜石市天神町仮設

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まだまだ多くの人が住んでいる模様。

 

 

駅近くや仮設住宅があるような標高の高いところでは震災の影響はあまり感じなかったですが、海に近づくと、徐々に当時の被害の大きさが垣間見えるエリアになってきました。

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一階部分のみ流されている

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市営釜石ビル

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さらに海側に行くと、二階部分まで

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海近くの標高が低い部分では人も少なく、当時のままの建物がたくさんありました。

 

市街地へ引き返す途中には、新しくできたイオンが。

イオンタウン釜石/釜石の復興を願い、3月14日オープン | 流通ニュース

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地元の雇用を生み、災害時には避難場所にもなる設計。

そういう思想は素晴らしいと思いました。

(地元の個人商店などに対する悪影響は無いよね、きっと。そこだけ心配。)

 

 

夜になりました。

 

夜は昼に食べたラーメン屋の大将に勧められた、ラーメン屋と同じ釜石かまゆり飲食店街にある「助六」へ行きました。 

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とても小さな店内でカウンター席のみ。客は6人くらいが精一杯。

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奥に座っていたおじさまがとっても面白かったです。

めっちゃカラんでくれました。(下ネタも過激でした)

 

普通の家庭料理のようなものですが、どれも美味しかったです。

 

お通しのチンジャオロース

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かつお

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きゅうり

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カレイ(焼き)

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ちくわ(揚げ)

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サービスで出してくれたキウイ

こういうサービスが嬉しい。

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「ちびまる子ちゃん」「クレヨンしんちゃん」関係者のサイン?

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奥に座っていたおじさんが「女の子呼ぼうぜー!」と言い出し、知り合いのスナック勤務の方々が3人来店。ほぼ満席。

 

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素朴な料理、みんなが顔見知り。なんだか普通に人様の家の居間に入り込んでご飯をいただいているような感じで、とても楽しかったです。どんどん賑やかになってくる。

 

隣に座ったお姉さんといろいろ話しました。

 

震災で亡くなった方々を見かける人が多い

 「え、昨日は野宿したの?震災で亡くなった人に会わなかった?」

 

へ、どういうこと?

 

「このあたりを走ってるタクシーの運転手さんは、みんな見たことあるらしいよ。夏の暑い時期なのに、寒そうな格好して手を上げてタクシーを止めるんだってさ。で、タクシーに乗って行き先を告げるらしいんだけど、しばらくして運転手さんが振り返ると、その人は消えてるんだって。そういう経験している人たくさんいるんだから。」

 

まじっすか。昨日は野宿もしたし、夜中に被災地一人で歩いたんですけど。ちょっと怖っ。

 

でも、このタクシーに乗車する方々に対してはみなさん、「怖いオバケ」という感じでは無いらしいです。タクシーの運転手さんの語り口調も、恐怖体験というよりは、なんだか寂しそうな感じ。今度同じようなことがあったとしても「まあ、手を上げられたらタクシーには乗せるよぉ」といった感じだとか。共通して「オバケ」という言い方はしないらしいです。

 

不思議。なんだか、ちょっと自分も会ってみたいと思いました。まあ、そんなことは無いんでしょうね。

 

似たような体験談もあるらしいです。

 

「亡くなった人の霊は、復興工事中の現場にもたくさん出るらしいよ。それが怖くて逃げちゃった工事現場の方々もたくさんいるらしい。」

 

こっちは怖がっちゃったパターン。まあ、そりゃそうか。

 

・・・

 

後日知りましたが、本当にそういう話は多かったみたいですね。

(2ページ目)【3.11震災から4年】被災地で幽霊目撃談が多い本当の理由

 

もし東京で震災が起きたら

「震災当時、標高の高い部分に住んでる人のところまでは津波は来なかった。そのため、被災した人たちをそこの家で助けてあげたりもした。食料は、各家庭、ちょっとした野菜や米を作っていたので、それでなんとかしのいだ。もし、東京で同じようなことがあったら、どうするの?」

 

んん。東京でそんなことがあったら壊滅でしょうかね。ちょっと郊外に行ったくらいでは自給している人なんてほとんどいません。

 

相互に依存しすぎた社会だと、そういう災害に対応できる力が低下しているような気がしました。東京で同じような災害が起きたらどうなってしまうんでしょうね…

 

復興はそんなに進んでいない 

「たくさん工事しているところ見たでしょ。でもまだまだそんなに順調に進んで無いんだよ。地元の人からすると文句もたくさんある。大きい企業がたくさん来てるけど、地元にそんなにお金が落ちてる感じもしない。」

 

そうなんですね。ニュースとかであんまり被災地のこと見なくなってたから、なんとなく普通の生活に戻ってきていると思っていましたけど、そーでもなかったようです。

 

確かに、仮設住宅とか、復興商店街とか、4年経過するのにけっこうたくさん人がいたなぁ…

 

「行政にも不満がある。市役所とかには他の地域から助っ人で来てくれている職員さんがいるけど、彼らは1年とかで任期を終えて帰ってしまう。だから、任期が近くなると『次の担当者が』と言い出し、次の担当者は『前の担当者から聞いていない』とか言う。当事者意識が低い。ちゃんとここにずっといるつもりの人が必要。」

 

構造的に、人がうまく活躍できない仕組みになってしまっているかもしれませんね。大きい企業や行政に任せても限界がありそう。市民が自分たちで動くことも必要なのかもなぁ。

 

おわり

非常に興味深い話をしましたが、一方でアホな話もたくさんしました。

奥に座っていたおじさんはかなり絶好調になり、後から女将さんにも他の客にも下ネタ言いまくり。しかし、それに臆せずみんな対応。大盛りあがり。こじんまりとしたお店でしたけど(こじんまりしているからこそ?)、一体感があって、楽しく、あっという間に時間が過ぎました。

 

最後に、女将さんと少し話しました。

 

「もう、あと2、3年この店をやったら辞めるつもりなの。家族はいなくて一人暮らし。今はこの仕事が好きで、みんながこうしてワイワイしてくれるから寂しくならなくてすんでいる。ありがたいことね。」

 

なんだかちょっと寂しくなってしまいました。こういう、小さいけれど顔の見える商売をしている人がいなくなるのも残念です。こういう人が仕事をしやすくなるような仕組みとかができると、その土地が元気になっていくような気がするのですが。そうでもないのかなー

 

ホテルに戻って寝ました。

 

過去のエントリ

その1(旅の経緯から出発まで)

その2(客観的に見た自分の仕事のよさを知りつつ安くて旨い店を巡る)

その3(2日目、南三陸さんさん商店街でキラキラ丼を注文するが来ない。でものんびり待ちましょう。)

その4(南三陸さんさん商店街から南三陸町役場への移動、被災地の風景)

その5(BRTで南三陸から気仙沼へ移動)

その6(気仙沼市の被災地の現状)

その7(気仙沼の夜)

その8(気仙沼で野宿)

その9(奇跡の一本松を見学。釜石到着)